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最近、一日が何かについて考えをまとめるには短すぎると感じます。
やろうと思ったことを消化するにも短すぎる。
たとえ計画していたとしても、予定にないことが何も起こらずに計画通りに進む日なんてありません。
なので毎日が中途半端に終わってしまう。
だからと言って何もしないでいるには長過ぎる。
自分自身で作業や動く量の調整ができればいいだけの話なのですが、不器用なせいもあってそれすら上手くいきません。
世の中本当にままならないものです。



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例えば誰かにとても好きなものがあったとします。
誰かはその好きなものへの思いが高じて、何かを作り上げたいと思いました。
しかし、現実的に考えると生活を営みながらではその好きなものに使える時間もお金も限られています。
なので思ったことを実行に移すことができる誰かは、まずそこで一部にまで減ります。
あるいは本気で実行したいと思えるほどに好きではなかったのかもしれません。
しかし実行に移せたとしても、現実と理想のあまりに大きな差に耐え切れずに潰れてしまう場合がほとんどです。
結局、夢が実現できるのはほんの一握り。

仮に誰かに仲間がいれば実行に移すためのハードルは低くなりますが、代わりにその後の現実と理想との間を埋め、妥協点を決める際のハードルは高くなります。
そう考えると最終的には可能であれば一人で実行したほうがいいのではないかとも思えますが……
某漫画で「恥も外聞もなく動けるような人も時には必要」といった言葉がありましたが、その意味がちゃんとわかったのはつい最近のように思います。



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「今の精神状態をばっと断ち切るような刺激が欲しい」と、何気なく思ったところで待っていても来るはずもなく、それなら自分からどこか遠くに行ってみたらどうだろうなどと色々考えてはみるけれども、それを実行したところで実際に気持ちが晴れるかと改めて考えてみるとそうはならないだろうという結論に至る。環境を変えればいいのだろうかとは思っても、容易くそれを実行できるような状況にもなし。
実に世の中ままなりません。

先日、妙に寝付きが悪かったせいか、どうにも頭の回らない一日でした。
先日、某氏と話していた内容なのですが、

幸せな家庭はどれも似通っているが、不幸せな家庭は様々に不幸である。

ということを過去の文豪がその著作に書いたように、もし幸せの形が一様であるなら、自身の欲求を抑えてでもその形を目指せばいずれは幸せになることが出来るのかという話です。


本題の前にまず、上記の言葉に関する話から。
まず『幸せの形 不幸の形』とでも打ち込んで検索してみるとわかるのですが、この言葉に関しては「幸せは様々、不幸は一様」というような、そのまま捉えると正反対となることを唱える意見も非常に多いです。ではどちらかが間違っているかと言えばそうでもなく、ただ“幸せ”というものをどういった視点で見るかという違いがあるだけかと思います。
“幸せである”ということがその人を取り巻く環境が一定以上に満ち足りた状態であることを示すのであれば、“不幸せである”ということは逆に幸せになるための要素が足りていないことを示すわけです。簡潔に例えるなら、もし“幸せ”が衣食住が全て事足りている状態なのだとすれば、“不幸せ”はいずれかの要素あるいは全ての要素が足りていないということになります。衣だけが足りない人もいれば、食だけが足りない人もいる。全て足りない人だっているはずです。そう見てみれば『幸せな家庭は一様、不幸せな家庭は様々』と言うことができます。
ですが幸せな家庭があれば不幸せな家庭があるように、その家庭を構成する人間も十人十色です。もしも幸福を絶対量として表すことが出来たとして、その量が同じであっても人によってはそれを幸せだと捉える人も不幸せと捉える人もいるのではないかと思います。先述と同様に衣食住を引き合いに出すならば、全ての要素が5あれば幸せを感じる人もいれば、衣は3で十分な一方で食は8ないと幸せと感じられない人もいるでしょう。そういった面から幸せであることを前提条件とすると、確かに幸せであってもその形は様々と捉えることができます。

以上のことを考えた上で本題に入ります。
幸せの形は一様である、とは言ってもそれはあくまで“満たされているという意味で一様である”とすれば、幸せになるために必要なのは自身に足りない要素を補うこと。となれば、自身の欲求を抑えるのはそれに逆行することになるのではないかと思います。必要とする欲求のレベルを下げる努力をするというのも選択肢としてはあるとは思いますが、それは幸せを目指すためというよりは幸せになってから目指すべきことのように感じられますし、やはり幸せを求めるのなら足りない要素を補うところから始まるのではないかと思います。
仮に完全な無欲が体現できるのであればそれが究極となるのでしょうが、それほど人間はよく出来た存在ではないというのは自明の理です。欲求というものは常につき纏うものなのでしょう。
2010.04.30
いつかどこかで見た誰かの言葉でこんなものがあったことを思い出します。
「子供の頃、自分は主人公だと思っていた。でも実際にはただの名前もないNPCだった」
もっとも、この言葉は破綻しています。自身を主人公だと認められなければ、他にも主人公などいるはずもなく。もしいるとすれば該当するのは神様くらいのものだとでも言えばいいのでしょうか。
しかし言いたいことは理解できます。

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